昭和54年10月25日 朝の御理解
御理解 第57節
「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。」
楽じゃと仰せられる、そういうおかげの世界に住みたい。それには神を杖につけばと仰せられますから、神様一心にお縋りさしてもらい、そして私共の持っておる観念を、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだという、いわゆる障子一重がまま成らぬ人の身だという自覚。そこから神様のおかげを頂かなければ、出来る事ではないんだと、という思い込み。そこから神様のおかげを頂かなければ、という観念に変わってしまう。信心とは私はギリギリそこだとこう思うんです。
だからいうなら頼る、というても金を頼りにするわけでもなからなければ、または人を頼りにするというわけでもない。いわゆる木や竹は折れるのです。金の杖をつけば曲がるのです。ですから神様一心にお頼み申し上げる信心。簡単な様ですけれども中々もって難しい。なかなかもって難しいと言うて、なら放任しとって良いという事ではない。そこでお取次を頂いておかげを頂いて、そのおかげを頂いて神様の働きを信ずる。
そこから自分のいうならば、雑念というか雑念的考え方、まぁ雑念的考え方というのは、大変にややこしい表現ですけれども、今言う一切のものが、本当は当てにも頼りにもならないんだという事です。うちの息子は親孝行だから。と言うてその息子に頼っておった人がね、あっという間に事故で亡くなったという例がありますね。沢山のお金を持っておるからと思うておった人がね。
この世はもうそれこそ、地獄の沙汰も金次第だ。というふうに思い込んでおる人がありますけれども、楽だというおかげは頂かれん。極楽の沙汰は金次第ではいかんという事です。神を杖につけば楽ぢゃと仰るのはそういう事なんです。地獄の沙汰は金次第で行くかも知れんけども、なら極楽の沙汰は金次第では行けない。というひとつ事実をね、私共分からしてもろうて。
金がいらんというのではない、人はいらんというのではないけれども、それを頼りにする程他愛のないものはないという事を悟るんです。そして神を杖につけば楽ぢゃというその神様を絶対なものにしていく、絶対なものに頂いていく。いうならば信心の確立を願うという事は、そういう事だと思うんです。そこにはいうならお金はない。いうならその日暮し。いうならば子供もいない。ほんな一人身年を取っていくに従って寂しい。という事でしょうけれども。
神様を頂いていけばね、一人暮らしでもおかげが、いわば心の中に楽な心が開けてくる。神を杖につけば楽なんだとね。老後の為にとこう言うけれども、老後の為にはいよいよもって信心の力を頂いていかなきゃならん、徳を受けて行かなければならない。それにはまず、私共が稽古をさしてもらうね。金をはずさなければいけない、金の杖をはずさなければいけない。
金の杖をついて、そして神を杖についとったんでは煩わしい。木や竹のいうならば、それをはずさなければならん。そして神を杖につけば楽じゃと。今朝方からお知らせを頂いたのに、ちょうど私の枕元の時計が、三時ちょっと過ぎで、あともう二時三十分で起きらなきゃならない、と思いながらウトウトとまた眠ってしまっておった。そして夢の中で、夢の中というか。
本当の事だったと思うですけれども、非常に喉が乾くというお夢とも、夢うつつで「喉が乾くなぁ」と思うておった。それでもう起きて目さましてから、冷蔵庫がそばにありますから、冷たい水でも飲むということも、まわずらわしいという感じの中に、神様がはっといつも私がそのお水を頂くコップを目の前に見せて下さった。ならコップを手に取ろうとして、「あら、これは夢だった」と、思ってそれから目が覚めた。
昨日はもうそれこそ何と申しますか、前の月次祭の日が大変身体がきつかったから、やっぱり起きる時も、しるしい思いの状態でしたけれども、心耳に響いて来るのが、あの逃げた女房に、という歌があるでしょうが。「逃げた女房に未練はないが、それから何ぢゃったかね。お乳ほしがるこの子が可愛い、か。なんか一つ聞かそう浪花節、」か。何かという所が、ありましょ。
そしてネンコロリと言う所があるでしょう、そこの所をトンコロリと頂いたんです。(笑)もうおかしゅうして、おかしゅうしてもう笑いながら私は、昨日目が覚めた。ネンコロリぢゃなくてトンコロリぢゃん(笑)だからこの神様はもう不思議な不思議なお方だと思いますよ。もう兎に角だましすかしするようにして目をさまさして下さったり、起こして下さったりする。そういうおかげがそういうふうな神様との係わり合いというものが、どうしてそんなような事になって来るであろうかとね。
勿論一心の信心、もう五分十分な遅れたっちゃかまわん、と言った様なものがもうさらさらない。何と言うてもやはり三時半にはここに出て来なならん。四時の御祈念はそれこそ一分間だって切る事があっちぁならない、というその一心と、それから「金の杖をつくのぢゃない、木や竹をつくのぢゃない、神様をもう杖につけば楽ぢゃ」という神を杖に一心についておる所に、そういう神様と私との間に交流が生まれて来ておる。
今日はとてもただゴウグッて起こしただけではしろしかろうごたるから、もう笑わにゃおられんようなその歌のね、その歌のリズムが聞こえて来るんです。そしてトンコロリという、そこんとこでトンコロリが、ま兎に角おかしゅうしておかしゅうしてもう本当、一時ばっかりは笑いが止まらんような感じです。今日は喉が乾くなぁと夢うつつに思うところへコップを出して下さるから、そのコップを手を差し出して受け取るような感じで、今日は目覚ましのおかげを頂いたね。
私は神を杖につけば楽じゃという所にあるな、という事を自分で今日は感じさせて頂きますね。みんなが神様一心、神様一心と言うとるけれども、まぁだ金に頼っとる。人やら、物やらに頼っておる。いいえもうこれは、自分の息子やら、娘やらに頼っとる。それで息子が例えば交通事故でコロット亡くなったら、もうそれに頼っとるから、自分までコロッと行かなきゃならないね。
だから頼りになるのは神様だけだ。という事を分かる前に、まず我無力という事、障子一重が、ままならぬ人の身である、という事を分からしてもろうて、いうならば金に頼る心を捨てていかなきゃいけない。物やら金やら息子やら娘やらね。または自分のこれだけは自分の腕を頼るという人があります、自分の力を頼るという人がありますね。なら自分の腕を頼っとっても、中風にでもなってごらんなさい、もう自分の腕が頼りにならんぢゃないですかね。
自分そのものも頼りにならないんだ、頼りになるのは神様だけだと、分からせて頂いた境地を私は楽じゃと。だからもし自分が楽でないならば、まぁだ神様を本当に信じ申し上げていないんだ。という事に気づかせて頂いて、いよいよ神様を信じ切らせて頂けれる精進を、まぁあの手この手を頂かせてもらいながら、分からせてもらいながら、楽だという心を開かせてもらわなくてはいけません。地獄の沙汰は金次第かも知れないけれども、極楽の沙汰だけは金次第という訳にはいかん。
という事がはっきり明瞭にわかります。今日の御理解頂いておると分かるでしょう。お互いは、極楽いや合楽世界をめざしているのです。ですからその為には私共が、金次第物次第では、どうにも出来ない世界を分からしてもろうて、いよいよ神の杖をつけば楽ぢゃ。しかも神様と私がいつも合楽しおうておる世界、あいよかけよの世界。私がきついという時には、もうそれこそ笑い転げるような笑わせてからでも、目覚しのおかげを下さろうとする。心にウトウトというならば、もうあと三十分だから眠らんようにと思うとってもやっぱ眠っておる。
これじゃ眠り過ごすから、私の肉体は非常に水をほしいと思うておる。それでも起きてまでも飲もうという気がしない。そこへ神様がパッとコップを前に差し出して下さる。ハッと思うて、勿論実際に喉が乾いておったから、冷たいお水を頂かしてもろたら、それこそ目はパッチリ覚めてしまう。と言う様ないうならばあいよかけよというかね。合楽の世界というのは、神様と私共がそういう世界に住む事だ。というふうに思うんです。
どうぞ。